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僕の音楽遍歴(12 -完結-)
新しく買ったソフトで、新曲が出来ました。僕のやりたかったことが想像を超えるレベルで出来たことがうれしくて、僕は昔の仲間にこの曲を聴かせたいと思いました。

今ならいくらでも方法があるでしょう。アップローダーも充実していますし、なんだったらメールで送ったって、ファイルサイズは大した大きさではありません。

しかし、当時はまだ、今のような高速回線はなく、いくらmp3にしたといっても、メールで送りつけるには非常識な大きさでした。また、アップローダーもあるにはありましたが使用方法が難しく、一般的ではありませんでした。わざわざこの一曲だけをCDに焼いて郵送するのもバカらしいし・・・

そんなときに見つけたのが「Nextmusic(当時の「music-tokyo」)でした。誰でも無料で登録できる。アドレスさえ送ればいつでも自由にダウンロードできる。そして、何より魅力的だったのは、昔の仲間だけではなく、世界中の人に僕の音楽を発信できる、という点でした。

僕はすぐに自分のアカウントを登録し、最初の曲「I've got Reason」を登録しました。名前をローマ字にしたのは、「世界中の人に聴いてもらえる」ことを意識したからです。

そしてつまり、これが僕のネットミュージシャンとしてのスタートでした。

それからの活動は、僕のHPのProfieページに書いてあります。正直、お金になることは少ないです。でも、日本中の、そして時には世界の会ったこともない人からお褒めのメールをいただくと心からうれしいし、やっていてよかったと思うのです。

僕がこれからどうなるのかは、僕にもわかりません。音楽を作り続けていくことが僕にとって何かの役に立つのかと言われたら、いい答えが見つけられません。でも、音楽を作ることは、もはや僕の大切なアイデンティティーであり、人生の一部です。だから僕はこれからも、音楽を作り続けて行きたいと思っています。できる限りの力で、できる限りのクオリティーで。

「音楽遍歴シリーズ」に長い間お付き合いいただき、ありがとうございました。どうかこれからも、よろしくお願いいたします。
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僕の音楽遍歴(11)
僕がやりたかったこと・・・それは「もっとジャズ寄りで、もっとハウス的なアプローチ」でした。

「maninamoon」が「昼の音楽」だとすれば、「夜の音楽」。悪く言えば「もっと不健全な香りのする音楽」をやりたかったのです(^^;)。

しかし、当時僕がもっていた機材では、なかなか思うような音が作れませんでした。「maninamoon」をやっていた当時は、バンドのメンバーから「マイナーの曲でも明るく聴こえる」といわれたくらいのものだったので、それとは正反対の「暗い影」を演出するのがとても難しかったのです。

そういう曲を作るには、別の機材が必要でした。でも、単なるアマチュアである僕には、それらを買い揃えるお金はありません。

一方、世の中はどんどん進歩していました。特にコンピューターの進歩は目覚しく、かつては大量の機材を揃えなければできなかったことでも、一台のコンピューターだけでできるようになっていました。

そして僕は、あるソフトウェアを知ります。

それが、僕が今でもメイン機材として使っていて、これがなければ何もできないというくらい大切なソフトウェア、Propellerhead社の「Reason」です。

購入して、早速テスト的に曲を作ってみると・・・おぉっ!!思っていた音が、イメージ通りに自由に作れます。まさに「これだ!!」という感じでした。

この「テスト的に作った曲」が、Nextmusicに最初にアップした曲「I've got Reason」です。タイトルだけを見るとなんだか意味深に見えますが、要するに「Reason買ったよ!」という意味なのです(^^;)。
僕の音楽遍歴(10)
一定の成功を収めた「maninamoon」も、しかし、永遠ではありませんでした。僕らはそれぞれ、別の道を歩むことになりました。

僕は、maninamoonでは自分の趣味をひとまず置いておいて、「売れる曲を書く」ことに専念していました。くれぐれも誤解のないように。僕はこれをまったく後悔していません。むしろ、本当に貴重な体験をさせてもらったと思っています。「売るための曲」を書くことは本当に楽しかったし、その結果として、リスナーが「あの曲、いいね」と言ってくれたり、CDが売れたりするのは最高の気分でした。それに、「自分の趣味をひとまず置いておいて」と書きましたが、アレンジ担当であることをいいことに、実は結構やりたいことをやっちゃっていたのです(^^;)。ギターのY氏が書いてきた曲を、明らかに違う方向にアレンジしたりしました。ある意味、「いろいろな実験」もしたのです。

本当に楽しかった。

でも、僕が本当にやりたいことは、また別にありました。maninamoonの成功・失敗の如何に関わらず、僕はいつか本当にやりたいことをやるつもりでした。

maninamoonが終わったとき。それはある意味、「僕が本当にやりたいこと」をやる時期でもあったのです。そして、その時点で僕は「曲を売る=職業としてのミュージシャン」というスタンスからいったん離れることになりました。
僕の音楽遍歴(9)
様々な事情で「Canvas」は一度解散しました。そして、僕とギターのY氏は、新しい女性ボーカリストMさんを迎え、3人で新しいバンドを作りました。バンドの名前は「maninamoon(マニナムーン)」といいました。「Man in a Moon」・・・「月の人」ですね。

曲はY氏と僕が半分ずつくらい作り、すべてのアレンジとギターパート以外の打ち込みを僕が行う形で、曲作りをして行きました。

結論から先にいうと、このバンドは成功でした。

インディーズデビューし、最初のアルバム「maninamoon 1st」は完売。このアルバムには、松尾貴史(キッチュ)氏や漫画家の永井豪氏といった、そうそうたる有名人からライナーノーツが寄せられたのです。とてもポッと出のインディーズバンドとは思えませんでした。

リットーミュージック主催の「Axiaバンドオーディション」では、「ライトハンドはどこへ行く」という曲でギターマガジン賞を受賞。ライブも次々にこなし、なんとラジオ番組まで持ってしまっていたのです。インターネットラジオじゃないですよ(当時はインターネットなんて誰も知らなかった)。はっきりと覚えていませんが、FM山梨とか、そのあたりのFM局で毎週レギュラー番組を持っていたのです。

とにかく忙しかったです。曲作りも半端じゃなく忙しかったし、スタジオ入りも大抵深夜に及んだし・・・。僕はいつも車に大量の機材を積んで移動しなければなりませんでした。何しろ「ギターとボーカル以外」は全部僕でしたし、あの頃は今みたいなコンパクトなシステムなんてなかったので、いつもキーボード2台とスタンド、ドラムマシン、データ作成用PCと大量のケーブル類を積んで移動しなければなりませんでした。

頭がぼーっとしたまま走って、高速で事故を起こしそうになったこともあります(ほんと、死ぬかと思った)。でも、深夜のガソリンスタンドで給油しながら、シートを倒し、空を見上げながら「ひょっとしたら、これが『充実してる』ってことなのかな・・・」と思ったのを覚えています。
僕の音楽遍歴(8)
さて、大学の音楽サークルでバンド活動をしながら、大学卒業間際に、僕は決定的な出会いをしました。ギタリストY氏との出会いです。やはり同じサークルでギターを弾いていた彼は、実はそれまで、僕との接点はまったく無いに等しい状態でした。彼は彼で別のバンドを作っていましたし、僕は僕で例の幼馴染のギタリストと一緒にやっていましたから、お互いがお互いを必要としていなかったわけです。

しかし、卒業間際のライブをやった後、僕は彼に声をかけられました(実はそれまで、彼のことは意識すらしていなかったのです。ほんと、ごめんね(^^;))。「今度、一緒にやってみようよ」と。僕は本当に気軽に、それこそ「いいよ~~~ん」というノリで答えました。どうせお遊びだし。たまには違うギタリストとやってみるのも悪くない。その程度のノリでした。

しかし、彼とスタジオに入ってみて、僕はびっくりしました。それまでギタリストというのは、音楽を無視していつでも最大音量で楽器をかき鳴らす人種だと思っていたのですが(しかし、我ながらひどい偏見だな(^^;))、彼は「引くところは引く、出るところは出る」というツボを知っているギタリストでした。さらに、確実なカッティング、確実なソロ等、一聴しただけで基本テクニックをしっかりこなしたプレイヤーだとわかる音を出す男でした。

僕はそのプレイに感銘を受け、一緒にバンドを組むことを決めました。彼のバンドは「Canvas」といいました。しかし、この「Canvas」は長くは続きませんでした。
僕の音楽遍歴(7)
当然のことながら、バンドも組みました。これもラッキーだったのは、僕の小学校のときの同級生(僕の家から歩いて3分のところに住んでいる!)がギターを弾いていて、高校卒業間際くらいには、既にバンドの真似事みたいなことをしていたのです。

一番最初のバンド経験は、その、高校卒業間際のバンドでした。彼が彼の高校の友達と作ったバンドにキーボーディストとして加わったのが最初。しかも、そのバンドで初めてやったライブが「市川市文化会館」という、今ではクラシックからロックまで幅広くコンサートを行う会場でした。

今にして思えば、はっきり言って演奏はめちゃくちゃ。レベルもクソもあったもんじゃなかったですし、結局そのバンドはそれっきりだったのですが、これ以来、その幼馴染とバンドをやるのが恒例になったのです。

僕も彼も(それぞれ別の大学ですが)大学の付属高校にいたので、そのまま上の大学に進学しましたが、それからもずっと、彼が彼の大学で入った音楽サークルの文化祭に、僕もキーボーディストとして必ず出演していました。

彼はイングヴェイ・マルムスティーンやマイケル・シェンカーが大好きなヘビメタ・早弾き派。僕はテクノやジャズに傾倒したスタジオ・打ち込み派で、常識で考えれば話が合うはずがないのですが、毎年、本当にいろいろ一緒にやりましたね。イングヴェイとYMOとおどるポンポコリンと小比類巻かほるを一緒のステージでやったりしたんだから、もうデタラメです(笑)

ドラムとベースが揃わなくてギターとボーカル以外は全部僕が打ち込みなんていうケースも何度も(っていうか、そういうケースがほとんど)。でも、これは本当に貴重な経験でした。なぜなら、そのときのテクニックや経験で今につながっているものがたくさんあるからです。

いろんな失敗もしましたね。シーケンサーのテンポ設定を間違えて、早送りみたいな曲になっちゃったり、次の曲データのローディングを間違えてステージが止まったり・・・思い出しても冷や汗ものの失敗もたくさんやらかしました(^^;)

この経験も生きてますよぉ(笑)
僕の音楽遍歴(6)
高校2年のとき、もう一つ、僕の音楽遍歴にとってエポックメイキングな出来事が起こりました。

初めてのシンセを手に入れたのです。

買ったのは「YAMAHA DX7II FD」

世界初のFMデジタルシンセだった名器・DX7の後継機で、やはり爆発的ベストセラーになった名器です。

これで何でもできる!あこがれていたYMOに近づける!僕はうれしくてうれしくて、たまりませんでした。毎日2階の自分の部屋で弾きまくり、興奮して足で地面を叩きつけるようにビートを刻み、下の階にいた母親に「あんた、何やってんの!うるさいわよ!」と怒られたこともあるほどです。

YMOやジャズとともに、当時はフュージョン(CASIOPEAとかSQUAREとか)も聞き始めていて、そのフレーズも弾きまくりました。

そしてもう一つ幸運だったのは、(前回の音楽遍歴に書いた)当時僕が入っていた合唱部の指導者(指揮者)が、やはりこの手のデジタル楽器マニアだったことです。

彼に僕がDX7を買ったことを話すと「あ、そうなの?そしたら最近シーケンサーを買い換えたから、古いのあげるよ」といわれ、QX21というシーケンサーも手に入れることができたのです。

分解能1/96、再生トラック1(テンポラリートラック1)という、今にしてみればとんでもないロースペックで、トラックを分けて記録するとトラックダウンしなければ続きができない。一度トラックダウンしてしまうと間違いに気づいても変更できないという地獄のようなマシンでしたが、それでも僕はうれしくて仕方ありませんでした。「あの高速アルペジオが作れる!」「自由なフレーズが正確なビートで作れる!」と、毎日のようにポチポチ、ポチポチとボタンを押して、打ち込みに専念していました(僕はこれを「男の手編み」と呼んでいました)。

そして、これで初めて「オリジナル曲」と呼べる曲を作ったのです。それがProfileページに書いてある「Moon Flight」という曲です。

さらにこれに気をよくして、自宅にあったダブルデッキをつかって、バックトラックを一つのテープに録音した後、「カラオケ録音機能」を使って別のパートをダビングしていく、という方法で曲を作り出しました。何度もダビングを繰り返すとテープが伸びてきて、最後の方はピッチが微妙に下がっているわ、音はひどいわ、これも今思えば最悪の環境でしたが、本当に楽しかったのを覚えています。

あんまり弾きすぎて手の指がおかしくなり、軽いバネ指状態になっていて、いまだにそのままです。成長期に無茶をするのはやめましょう(^^;)。
僕の音楽遍歴(5)
さて、高校に進み、僕は部活を探しました。高校は男子校でした。

音楽系の部活をやりたいと思っていたのですが、当時高校にあったのは

・音楽鑑賞部
・吹奏楽部
・ギター同好会
・男声合唱部

の4つでした。ギターは弾けません。鑑賞するだけじゃどうにも・・・。

残ったのは吹奏楽部と合唱部。実は吹奏楽は中学の時にちょっとやっていて、結局まともに音が出せなくてドラム担当になったのでした(それはそれで楽しかったんですけどね)。そんな苦い思い出と「合唱なら荷物もないし、どこでもできるし、ラクそうだな」という、どうにもいい加減な思いで、合唱部に入ったのです。

きっかけがいい加減でしたから、練習態度もいい加減でした。ましてや当時は今みたいにアカペラブームなんていうものはありませんでしたから、合唱はただただ「ダサいだけ」の存在でした。

練習にもほとんど出席しませんでした。でも、この合唱部、実はかなり由緒と歴史のある合唱部で、部員も実力も全然ないのに、大きなステージで歌う機会がとても多かったのです。定期演奏会も年に2回やっていました(ちなみに、僕はベース担当でした)。

そうなると、やはり演奏会には全員出席。半強制的に練習が入ります。

この合唱部、演奏会のレパートリーにある種のしきたりがあって、ミサ曲を含めた宗教曲(学校は特定の宗教とは一切関係なかったんですが、「古典のミサ曲には名作が多い」という理由で、ほぼ必ず入っていました)、ポップス、現代音楽という3本柱が必ず含まれているのです。

そして、こうしていわば半強制的に--しかも、最も多感な高校時代に--クラシックと現代音楽に触れることで、僕の中にまた新しい引き出しが作られていったのです。
僕の音楽遍歴(4)
僕が中学2年の時、YMOは「散開」しました。

衝撃でした。永遠ではないとわかってはいましたが、こんなに早くその時が来るなんて。

そして、僕は途方に暮れました。

これから何を聞けばいいんだろう?YMOを初めて聴いたときの衝撃と快感を与えてくれる音楽は、見つけられそうにありませんでした。僕の体はYMO漬けになっていましたから、もはやロックは体が受け付けてくれませんでした。まして歌謡曲!?J-POP(当時はそんな言葉はありませんでしたが)?ありえない!

そんな頃、僕はまだエレクトーンを弾き続けていました。そのレパートリーの中に、なんだか妙に僕をひきつける音楽がありました。

それは「バードランドの子守唄(Lullaby Of Birdland)」という曲です。

ジャズをご存知の方なら知っているでしょう。とても有名なスタンダードジャズです。

細かくて伝わりにくいとは思いますが、最初の「Oh, lullaby of birdland, that's what I always here・・・」の「that's」の部分が、マイナーキーであるにも関わらず半音上がっていて、一瞬メジャースケールを取るのです。弾いたからわかったのでしょうね。ものすごく不思議で、しかも気持ちよかったのです。

これですぐにジャズにハマったわけではありません。コンボジャズを理解するには幼なすぎました。でも、グレン・ミラーやコール・ポーターの曲を聴いたり弾いたりしたときに、「ひょっとしたら、これなのかな・・・?」と、漠然とジャズへの思いを感じたのでした。
僕の音楽遍歴(3)
さて、エレクトーンの練習は相変わらず全然しないまま、小学5年生になったとき、テレビから流れてきた音楽に、僕は衝撃を受けました。聴いたことのない突き抜けるような高音。無機質で最高に心地よいリズム、駆け抜けるようなシーケンスフレーズ。

これは何だ!?!?

それはYMO-イエロー・マジック・オーケストラの「Rydeen」でした。

当時はインターネットなどなく、情報はテレビや雑誌から手にいれるしかありませんでした。テレビでは滅多に演奏しなかったYMOは、僕にとって謎のグループでした。「3人しかいないのにオーケストラ?」「オーケストラなのにこの音?」「一体なんなの!?この人たちとこの音楽は!?」

FMラジオでYMOの特集をやっていたのを聴いたときも、そのまったく新しい音とリズムに、僕は夢中になりました。その頃、誕生日に母にねだって買ってもらったのが、初めて自分から欲しいと思って買ったレコード(「X∞MULTIPLIES」)でした。僕はそのレコードを、来る日も来る日も聴き続けました。なんてかっこいいんだろう!なんてすごいんだろう!僕は完全にシンセサイザーとコンピューターミュージックのとりこでした。

そう。音楽の喜びを知ったのです。

エレクトーンでも弾きました。こんなとき、エレクトーンはYMOを演奏するには(高価なシンセサイザーを手にいれられない僕には)ぴったりでした。

そして、「あぁ、シンセが欲しい」「あんなかっこいい音楽を演奏したい。作りたい」。しまいには「どうして僕はYMOじゃないんだろう」とまで思ったものです。

とにかく、僕はYMOのとりこでした。音楽とはYMOだったのです。

しかし、僕にとってすべてであったYMOも、当然のことながら永遠ではありませんでした。
僕の音楽遍歴(2)
幼稚園に入ったばかりの頃、母親と買い物に出かけた帰りに、僕は突然「おしっこ!」と言い出しました(というか、言い出したそうです。このあたり、全然記憶にありません)。あわてた母は、一番近くにあった建物に入って、トイレを借りることにしました。

それが楽器店だったのです。

トイレに行った帰り、僕は店に並んでいたエレクトーンの前に釘付けになり、動かなくなりました。やがて「これが欲しい」とダダをこねだしました。エレクトーンのベース鍵盤を見て「これは何をするものなんだろう?」と、ものすごく興味があったことは覚えています。

もちろん「はい、そうですか」と買えるものではありません。母は僕を引っ張るように連れて帰りました。

ところが僕の方は、あのエレクトーンはもう買ったものと思い込んでいたらしく、もらってきたカタログを眺めては「エレクトーンはいつ来るの?いつ来るの?」と何度も何度も母親に尋ねました。結局、母が根負けする形でエレクトーンを買い、それはめでたく我が家に届いたのです。

僕はうれしくてうれしくて、毎日それは一生懸命に練習・・・するはずもなく。

ほとんどの楽器奏者がそうであるように、子供の頃、僕はエレクトーンの練習が大嫌いでした。自分でダダをこねて買ってもらったにも関わらず。そりゃそうです。友達と野球してた方がずっと楽しいんです。今にして思えば、もうほんとに、あきれるくらい練習しませんでした。でも、母が「もう辞める?」と聞いても、絶対に「辞める」とは言いませんでした。辞めちゃうのはなんだか悔しかったんですね。

でもまさか、この後22年間もエレクトーンを弾き続けるとは思ってもいませんでした。
僕の音楽遍歴(1)
興味がない人は全然興味ないと思いますが、今までの僕の音楽遍歴を、子供の頃から振り返って書いてみようかと思います。

記憶の中で最も古い曲は、たしか、「ママと遊ぼうピンポンパン」の中で流れていた「パンダちゃん」という歌だったと思います。ただ、この曲は覚えているというだけで、夢中になったというわけではありませんでした。

では、最初に夢中になった曲は何かというと、それはおじいちゃんの家にあったPioneerが当時売り出したばかりの4チャンネルステレオの視聴版レコードでした。

これの何がすごいって、バート・バカラックの名曲達(「Promises、Promises」「Any Days Now」等)を、原信夫とシャープス&フラッツが演奏しているレコードだったのです。バートバカラックだけではなく、ハービー・マンの「Memphis Underground」も入っていました。曲の途中には、Pioneerの4チャンネル録音技術(マトリックスエンコーダー・QE1010)がいかに優れているかの解説も入っているというレコード。僕は、このレコードの曲に夢中になっていたのです。

あと、おなじくおじいちゃんの家にあったベンチャーズのレコードもよく聴いていましたね。

この後、僕が音楽を始める決定的かつ偶然な瞬間が訪れようとは、この頃は思ってもいませんでした。

この話、しばらく続きます。イヤでも続ける。まいったか(何をいばっているのか)
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